情報 風評 状況証拠
信じるということ........ そんな副題をつけてもいいかもしれない。
とは言っても、あんまりポジティブな記事ではないので、鍵をかけておいた方がいいのかな(笑)
他人を信用してよかった。人を信じる心が大切だ。………そんな記事ではないのだから。
他人を信用してよかった。人を信じる心が大切だ。………そんな記事ではないのだから。
このところ、少し忙しくて、新聞もニュースも、まして三面記事など見なかった。
もともと芸能ネタにも興味が薄いのだが、知人のブログに書いてあったので、リンクに飛んでみた。
北野誠というタレントが、 ”どこかで” ”何か” 暴言を吐いた ”らしい”。
そういうわけで、彼は出演番組を降板し、謹慎状態なんだそうだ。
ところが、いったいどこで、どんな発言をしたせいで謹慎状態になったのか、4月16日現在、不明なまま。
だから、いろいろと憶測が飛び交っている。
ところが、いったいどこで、どんな発言をしたせいで謹慎状態になったのか、4月16日現在、不明なまま。
だから、いろいろと憶測が飛び交っている。
まったく、なんなんだろうね(爆)
ネットにも、現実にも、山ほどの情報と、エセ情報がある。 (何を持ってエセと判断するかは問題だけど)
根拠のある情報、根拠のない情報、 (根拠って、突き詰めると何なんだろうね?)
導き出した正しい結論、正しくない結論 (この正しい正しくないだって、誰かが判断した結果にすぎない)
情報を利用し、ミスリードした広告。
根拠のある情報、根拠のない情報、 (根拠って、突き詰めると何なんだろうね?)
導き出した正しい結論、正しくない結論 (この正しい正しくないだって、誰かが判断した結果にすぎない)
情報を利用し、ミスリードした広告。
公を謳っているマスコミですら、下心の情報操作がある場合も、間違っている場合もある。
時には、何十年もかかって、判断ミスが明るみに出る場合もある。
時には、何十年もかかって、判断ミスが明るみに出る場合もある。
だから、すべての情報、例えば、「○○が、××は△△だと言った」 という事象は、
〇〇が発言したという情報としては価値があるが、
その ×× が△△であるかどうかは別問題だ。
信じるかどうかは、自分の判断になると思う。
多くの人が信じた時点で、それが中傷になったり、名誉棄損になったりする。
〇〇が発言したという情報としては価値があるが、
その ×× が△△であるかどうかは別問題だ。
信じるかどうかは、自分の判断になると思う。
多くの人が信じた時点で、それが中傷になったり、名誉棄損になったりする。
実害のある名誉棄損はともかく、個人で考えた場合、
何を信じて、何を信じないかの、選択の自由があるの時点で、責任は自分にあると思うんだけどなあ。
何を信じて、何を信じないかの、選択の自由があるの時点で、責任は自分にあると思うんだけどなあ。
(それが、タレントなど人の評判が重要な職業において、「不適切」な発言であるかどうかは
ここでは別問題としておく)
ここでは別問題としておく)
さて、
バーチャルな情報に、バーチャルな知人に、バーチャルな信頼関係.... ネット社会でそういうものが存在する。
命の危機も、生活の危機も、責任も伴わない、そんな緩やかな付き合いと、人間関係だ。
バーチャルな情報に、バーチャルな知人に、バーチャルな信頼関係.... ネット社会でそういうものが存在する。
命の危機も、生活の危機も、責任も伴わない、そんな緩やかな付き合いと、人間関係だ。
#責任云々に関しては、wikipediaレベルの書きものを
#簡単に全面信用してしまう輩もいるので、
(大学生のレポートですら、それがある!)
#誰でも読めるネットに乗せる場合は、情報のソースや、判断にいたる根拠、
#公的引用文献などは、極力明記しておくべきだとは思うのだが。
#簡単に全面信用してしまう輩もいるので、
(大学生のレポートですら、それがある!)
#誰でも読めるネットに乗せる場合は、情報のソースや、判断にいたる根拠、
#公的引用文献などは、極力明記しておくべきだとは思うのだが。
ここからは、そんなバーチャルの世界の人付き合いのお話。
〇〇氏の発言だから信用した。それなのに、云々かんぬん.........
ネットで、そんな記事をたまに見る。恨み言を見かける。恨み言を聞くこともある。
ネットで、そんな記事をたまに見る。恨み言を見かける。恨み言を聞くこともある。
そういう記事を見るとうんざりする。
信用、同調した時点で、君の判断なのだよ..... なんでわかんないかなあ。
信用、同調した時点で、君の判断なのだよ..... なんでわかんないかなあ。
私なら、自分が見つけた判断根拠のあることしか信じない(結論付けない)し、
自分の導き出した判断と、それゆえの行動ならば、自分で責任は持つけどな。
自分の導き出した判断と、それゆえの行動ならば、自分で責任は持つけどな。
信じるも、信じないも、自分の意思。
それをどこかに置き去りにしてしまったような発言や、記事を見かける。
それをどこかに置き去りにしてしまったような発言や、記事を見かける。
ポジティブな結論を導き出しやすい者、ネガティブな結論を導き出しやすい者、
こうあってほしいという願望に、引っ張られる者。
出された結論には、そんな風に、個人の感情や考え方、思惑が入り込んでいる。
こうあってほしいという願望に、引っ張られる者。
出された結論には、そんな風に、個人の感情や考え方、思惑が入り込んでいる。
そんな結論と、別の結論をぶつかり合わせても意味はない。
まして他人の結論を、とやかく言えるわけもない。
まして他人の結論を、とやかく言えるわけもない。
結論Aに至った者が持っている情報と、結論Bに至った者が持っている情報と、
それらの....決定的な情報と、状況証拠的情報を全部まとめて、新たに判断をするべきなんじゃないのか?
それらの....決定的な情報と、状況証拠的情報を全部まとめて、新たに判断をするべきなんじゃないのか?
いくつ状況証拠があったら、一つの証拠とみなせるんだろう。
偶然の一致は、一つならあり得ること。100の偶然は、ありえないことではないけれど、確率が低い。
裁判では、偶然は偶然、状況証拠は状況証拠のままだろうけどね。
ネットだったら、二つ状況証拠で、風評が立つだろうか?
裁判員制度になったら、どうなるのだろう?
偶然の一致は、一つならあり得ること。100の偶然は、ありえないことではないけれど、確率が低い。
裁判では、偶然は偶然、状況証拠は状況証拠のままだろうけどね。
ネットだったら、二つ状況証拠で、風評が立つだろうか?
裁判員制度になったら、どうなるのだろう?
自分の結論に根拠があったように、相手の結論にも、何らかの根拠があるのだと、
どうして......考えられないのかな?
どうして......考えられないのかな?
彼等は信じたいものを.....信じる。取り上げたい証拠を、取り上げる。
それでいながら、自分の判断が変わると、それまで信じたものを批判してみたりする。
それでいながら、自分の判断が変わると、それまで信じたものを批判してみたりする。
それが自然科学の共同研究者なら、自分の証拠をぶつけて、証拠同士を戦わせるだろう。
身内が相手なら、説得しようとすると思う。
そんな筈がないだろう、目を覚ませ、と、自分が嫌われてもいいから、思いをぶつけるだろう。
身内が相手なら、説得しようとすると思う。
そんな筈がないだろう、目を覚ませ、と、自分が嫌われてもいいから、思いをぶつけるだろう。
仕事が忙しくなかったら、もう少し言葉をかけたかな?
風邪などひいていなくて、元気な時だったら?
風邪などひいていなくて、元気な時だったら?
いや、違うな。
わたしは、意味付けの出来ない努力はしない。
わたしは、意味付けの出来ない努力はしない。
ただ、少し、悲しいだけだ........