ブログ引越し検討中 (仮住まい)

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ニュースネタ ひとたび終了

さて、建設的な意見をいっぱいいただいたのと、ポツポツと意見が届いて思い出すのと、
そもそも自分は悩んだり嘆いた後にレジュメントを作らずに、後々同じ思考にはまるのは不本意なので、
過去2件の記事を、いったん取りまとめようと思う。
結論が出るものではないだろうとの意見もあると思うし、これが最終結論でもないのだが、
レジュメントを作るのは私の習性みたいなもので、許していただきたい。
(取りまとめることによって、短絡的結論に陥らない措置も、それなりにとろうとは思っている)

   きっかけのニュース  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100628-00000062-jij-soci    
   元記事  http://blogs.yahoo.co.jp/green_zebra_2008/32398352.html
   コメント抜粋とリコメント http://blogs.yahoo.co.jp/green_zebra_2008/32414846.html
 
   カテゴリーを防犯としたのは、
   今後どうすればいいか建設的に考えるための意気込み、と 思ってください。
 



まず、
コメント欄で、多くの方が、そんな担任教師に当たった私を、気の毒だと言ってくれた。
 
       素直に、ありがとうございます。
       教師全体を責めるのでも、私を責めるのでもなかったことに感謝します。
 
 とてもありがたいし、大人になった今聞いても、心安らかにさせていただけるのだが、
かつての担任教師の名誉のために言っておくと、
何も異国帰りということのみで私を嫌ったわけでもない・・・・・・と、聞いている。
 
  私は日本人学校で日本語の特訓を受けた。
  でも帰国する地方がマチマチな小学生に対して、綺麗で無機質な標準語だったから、
  「地域によっては、方言があって聞き取りにくいこともあるかもしれません」 と、注意されていた。
  だから私は、日本の担任教師の言葉が分からないのを、彼女の方言のせいだと思った。
 
     「先生、標準語 で 喋ってください。 日本語は 習って きました」
 
  卒業して数年たってから、関係者(?)に聞いたところによると、
  担任教師は教員室で、 「あの子は、人のことをバカにして!」 と、悔しがっていたそうだ。
  オーストラリア人は、オーストラリア英語と米国英語を使い分けられる人が多かった。
  どちらかと言うと米国英語の私の両親には、言い回しを変えて会話をした。 
  そういうのは、簡単に切り替わるものだと思っていた。
  日本人の訛りが、本人にわかりにくいものだとは、知らなかったんだ、私は。
 
  私の母親も、ミスを犯したようだ。
  小学校で、父兄に協力してもらって学校の草むしりをする、という連絡があった事がある。
  私の母は、アトピーで土に触れない。 
  土のついた野菜ですらデンジャラスなので、家には家政婦さんがいた。
  だから、草むしりには、家政婦さんに代わりに行ってもらった。
  自分よりは役立つだろうと思ったのだろうし、
  海外赴任の日本人はヘルパーを雇っていることが多いから、疑問に思わなかったのだろう。
  これも、後に担任教師にクラスで皮肉られ、クラスで私が浮く原因になった。
 
  大らかな人だったら、訛りを指摘されたことも、家政婦云々も、気にしなかっただろうし、
  プロ意識があったら、個人的な感情として、反感をねじ伏せていたかもしれない。
  ただ、彼女はそうできなかった。 彼女のトラウマにヒットしたのかもしれない。
 
英語圏からの転入生は私が初めてだったようだ。
多分、校長や教頭も、私にとって、一番間違いのないとおもわれるクラスに入れてくれたのだと思う。
つまり、隣のクラスの英語はちょっとわかるけど経験の少ない若い教師よりは、
長い経験を持ち、多くの生徒によい先生だと言われ続けていた老教師が良いと思ったのだろう。
離任するときに、号泣していた子がいたから、そしてそんな子は決して少なくなかったから、
彼女は、多くの標準的な小学生にとっては、いい先生だったのだろう。
 
  当時の校長とは、大学時代に何かで話すチャンスがあって、
  「うちの学校に居た時に、そんなに大変だとは知らなかった、どうして話してくれなかったんだ」
  との、言葉を聞いた。
  「言ったんですけどね、散々。私の日本語は、校長先生にも通じなかったのかもしれませんね」
  と、すでに徹底した教師嫌いになっていた私は答えたけど。
  自分の采配の失敗は、見ぬふりをしてたのかな ・・・・・・
 


 
先の記事を書いたことで、私は教師でした、現役の教師なんです、という方たちを知り、
普段のブログに、教師色が全然ない方がいたので、驚いたりもした。
芸術系や、特別クラスを担当している先生方のスタンスには、反発を感じない事が多いということも分かった。
 
どんな人が教師に向いているのか、自分なりに考えてみると、
 
 1. 根が大らかで、他人の痛みに同調、同情できる人。 優しい人。
 
 2. 同調や同情しきれなかったとしても、この場合はこうするべきだ、というプロ意識の徹底した人。
 
 3. 許容範囲が広く、正しい意味でポジティブな人。
    (「〇〇が出来なかったのはxxのせいで、自分が悪いのではない」 というのではなくて、
    「できないことがあったら、出来る方法や糸口を探そう」 と考える人)
 
 4. 個人と組織を区別し、組織に対して、我と通すところと、迎合すべきところの判断ができるひと。
 
 5. 生徒や父兄に対して、折れる場合とはじき返す場合の判断ができる人。

             まだまだたくさんあるのだろうが、今回のネタではこのあたりが思い浮かんだ。
                    (知識の伝授や考える力を養うという観点は、ひとまず外している)
 
さて、ここで、学校組織や文部科学省などで何が出来るか考えてみる。
 
優しい人と強い人が一致していればいいのだが、実際問題として、どちらかの特性が強く出ることが多い。
強いて言うなら、1が優しい人、2が強い人で、3に関しても、1と2の人ではアプローチの仕方が違うだろう。
 
1の人は、もしかしたらモンスターペアレンツに対して打たれ弱いかもしれない。
でも、1の人たちの特性を生かすためには、彼らを守ってあげなければならないように思う。
1,2は協力し合うべきで、学校には両方がいて欲しい。クラスの担任と副担任だったりしたら、言うことはない。
あるいは、1の先生方を客観的立場で守る、弁護士なり上位組織が必要なんではないかと思う。
 
4のうちの半分は、自分を甘やかすんじゃない、という一言だ。
 
で、4の残り半分と、5・・・・・・ 
ブログに来てくれる教職者の発言で、時折鼻につくのは、折れることを知らない人が多いところだ。
 
   自分の知っていることを他人が知らなければ相手が無学、
   自分の知らないことがあれば、それは一般知識として不要なこと、
   何かを失敗しても、すべて失敗した自分には理由があり、どうしようもなかったと納得する。
   あるいはその保身を、教師というものは間違ったと認めては生徒に示しがつかない云々、上司から云々 
   と、あたかも 「組織を守るため」、みたいなすり替えをすることが多いためだ。
 
   私自身、その罠に陥っていないか、常に神経質になっていたりもする。
   実社会では言わずもがなだが、ブログなどのネット社会においても同様、
   自分の専門知識は正しく伝える義務があると思うし、自分のサイトでは自分の意見を述べる。
   他所の記事にコメントを置いてくる時、自分の記事の中で論理と展開する時、で、
   ちゃんと使い分けができているだろうか、と、心配なことが多いのだ。
 
   専科が許される (専門外は責任がないが専門教科は深く知ってる) 中学以上の教師と、
   すべての教科を網羅しなければならない小学校教師の特性の違いもあるだろう。
   大学教授に至っては、多少の非常識さは許されてしまう場合すらある。
   だから、折れることができないのも、職業的習慣と思えないこともないのだが。
   時代背景や、地域によって変わってくることかもしれないし。
   実際のところ、2のプロ意識でも、
   自分は間違ってはいけない=間違いを認めてはいけない、バカにされてはいけない
   と、なっちゃってる先生方が、案外いるのではないかと思うのだ。
 
さて、そうは言っても、折れる場所とはじき返す場所、どうすればいいか悩むことも多いのではないかと思う。
キリストは、99匹の羊をほったらかして、1匹の迷い羊を追いかけて行ったが、
小学校でそれをやったら、99匹が放浪してしまう。
なのにその1匹を見捨てたことで、バッシングされる教師が山ほどいるのも確かなのだ。
 
対応策になるかどうか分からないが、
これこそ、マニュアルなり、相談窓口があっていいのではないだろうか?
できれば、校長や教頭ではなく、もっと上位組織。学校の差や、個人差の出にくいレベルで。
 
  「今、自分のクラスはこういう状況です、どうすればいいですか? どんな前例がありますか?」

例えば、教師のためのホットラインを作り、
法律的に引っかからず、また、対応が最適でなかった場合にも、
       (99匹か1匹かの選択で、相手によって正解が変わることなど山ほどあると思う)
対応した教師一人を矢面に立たせないための保険を作ってあげられないだろうか?
教師が事なかれ主義で保身に走るようになった理由は、
軽微な何事かがあったときに、個人に責任を負わせようとするせいがあると思う。
   ( ↑ 大きな事件は、組織として揉み消しに走る場合もあるので)
〇〇の指示に従いました、と、逃げ場を作ってあげてもいいのではないだろうか?
それとも、次は〇〇に責任を転嫁するだけになるのだろうか? 
だったら、〇〇は資格制にしてはどうだろうか? 
この人の判断はその場において正しい、という、公的なバックアップを作るのだ。 
 
それでは地域差に対応できない、というのなら、どこかで地域のデータを積み上げているのだろうか?
時代が違うと言うのなら、同じ時代の他の子どもたちのデータを、どれだけ集めているのだろうか?
一見、杓子定規になるかもしれない。
でも、行動できない事なかれ主義教師が山ほどいるよりは、マシなんじゃないだろうか?
事あるごとに、ひたすら低姿勢に謝ってしまうより、マシなんじゃないだろうか?
 
初等教育なら、例えば登校拒否の子供についても、
1000の判例10000の判例があるのではないかと思う。
個々で違うから、一概には言えない、と言われるだろうか? 確かに、そういう面もあるだろうと思う。
ただ、経験の浅い先生は過去の対応をすべては知らないだろうし、
こういう場合はこうした、という判例を知っていて損なはずはない。
トラブルデータベースと、教師のための相談窓口・・・・・
        (教師のためのメンタルサポートいう意味ではなく、むしろ教育現場的ケースワーカー
子供手当のバラマキよりも、考える価値はありそうな気がするのだが、どうだろう?
 


 
                     私は帰国子女で、一般的な小中学生ではありませんでした。
                     教えたことがあるのは、大学生・大学院生だけです。
                     自分の子供たちも、都内のごく一所の小学校に通っているにすぎません。
 
                     だから、現場を知らない者の意見かもしれません。
 
                     でも、現場には居ないけれど、少しでも何か変わらないかなあ、と、
                     ついつい考えちゃうんですよね。
                  
   当初限定記事でしたが、前記事にコメントいただいた方から尋ねられたので、解除します。
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