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ビュッフェスタイルの共感

考えを構築する (←一般的には「まとめる」という) ために書いているので、
長い上にダルです。適当に読み飛ばしてください。

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クリスマスリースのパン。 美味でした。


私は飽きっぽい。
いろんな趣味に短期間ずつ手を出して、だから、「何でもこなす」 と、誤解されがちだ。
私はオタクだ。
追求型・研究型の性格ゆえ、興味を持ったらすぐに、オタクレベルのネタを掘り起こしている。

だから、その趣味に関して自分よりディープな知識を持つ人に魅力を感じ、
そして自分と異なる感性や、異なる考え方、異なる世界にいる人に魅力を感じる。
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趣味が違って感性が似ている、
あるいは、趣味が同じで感性が異なるのが最高。

でも、趣味も感性も同じ人に合ったら嬉しいかもしれないが
交流するメリットを感じられず、粗末にしてしまうかもしれない。


  **両方が同じ知人は “数年ぶりでも時間を感じさせない幼馴染的な関係” になれるかもしれない。
  **なお、転勤族の子供だった私に、幼馴染はいない。



ブロ友さんが 「共感」 について書いてらして、
最近私が感じたことにシンクロしているなあ、いや、むしろこれこそありふれた「感覚」なのかな、と思う。

ざっくりまとめると、
   世の中には 「共感」 を強く求める人が少なからずいて、
   (感性や趣味や考え方の)部分的な一致で、自分のコピーが存在した、と喜び、舞い上がり、
   一方、自分と違う部分を見つけると、 「可愛さあまって憎さ100倍」 状態になることがある。
   やってらんね~。     
                   ―---という内容だ。 (あってる?)

私とそのブロ友さんとは、趣味はかぶっていないものの、感性が似ている―――と私は思っている。
また、意見が違った時は、論点がはっきりした議論をし、
各々の結論に従うときも、元とは違う合意点を見つけ時もあって、つまり帰着が決まっているわけではない。
その昔の、ネット人口が少ない頃の掲示板やチャットサイトと似ている、と思う。

昔、私が入りびたっていた掲示板は、小説やシナリオのライターさんや、その予備軍がいる処だったから、
私のいい加減かつ直球な発言を、うまく解釈し、グローバルな表現でリプライしてくれていた。
米国で日本アニメの英語字幕を作っていた人が来て、一緒に字幕を悩んだこともあった。
賛成も反対も、いろんな議論が成立したと思う。
私は動物実験に関して、あんなに熱く、かつ冷静な応酬を、あの場所以外でしたことがない。

閉鎖的ではなかったと思うが、
時々、その場の議論を理解せずに発言してしまう人や、場の読解力が十分でない人が来ると、
その本人にはまったく悪意がなくても、邪険にしていた。
邪険にされた人は少しふてくされて荒らして、それで消えていく―――という、
ネットではありふれた(管理人さんごめんなさい)パターンを繰り返していた。

なお、場の読解力というのは、断じて「空気を読む」ではなく、文章の解釈能力である。




かつての2ちゃんねるほどではないが、

 「軸となっている議題を理解できる」  ←基礎知識と基礎学力がそこそこ一致。
 「冗談と冗談以外の区別がつく」
 「茶化していい場合といけない場合の区別がつく」
 「茶化していい立場といけない立場の区別がつく」
 「怒ったふりはOKだが、むやみに本気で怒らない」 ←怒っていると理解力が落ちるのですぐばれる。
 「意見の違う他人を、議題以外の部分で攻撃しない」 ←ゴールポストが動く、的な?

普段何気なく使っているネットマナーだけど、書き出すと結構あるな。

 「良かれと思って苦言しても相手には伝わらないことが多い」  ←自分もやってしまうので気をつけます。
 「助言は助言であって、押し付けではない」  ←ご高齢の方に、この区別の出来ない方が多い気がする。
 「自分のリテラシー不足で伝わらなかったときに、長々と食い下がらない」  ←アマチュアライターさん……
 「罪のない者だけ石を投げよ」  ←ナザレの旦那、ごめん、ぱくってみた。
 「正しい行いをしているからといって、(人間には)正しくない者を非難する資格はない」  ←出展忘れた。

ついでに、ブログでもチャットでもよくあるパターンでは

 「常連さんたちのコンセンサスが取れていないうちから、同業者面・常連面してしはいけない」

以前、苦労したんだよね……これ。
大学教員アルアルの話で盛り上がっているところに、「同業者です」と割り込んできて、
(大学スタッフだったらありえないような)失礼なことばかり発言し、
専門の話にまで食い下がり、案の定叩かれ、
挙句の果てに、「小学校教員(←中学だったかも)にはそんな知識必要ない」 と、言い出した。
「はあ?」 だったなあ……

別の話題の時は、それなりに面白い発言もする人だったんだけど、
彼も、ひとつ褒められたり、一致したりしたら、全部同じだと思い込んで、「仲間」 と思っちゃったんだろうな。
それから、全部の話題に参加しないと自分が忘れられちゃいそうで不安だったんだろうな。

そもそも、ある一点で気が合ったり、趣味が合ったりしたって、
すべてに気の合う人など、そうそう見つかるはずもない。
簡単に見つかるようでは、オリジナリティがないってことじゃない?

顔を見て、声を聞いて、匂いや、手をつないだ感触や、その状況でぴったり来る人がいないのに、
文字だけの、情報量の少ないネットで簡単に同類が見つかるもんかね……
簡単に見つかったとしたら、それは誤解だ。 あるいは詐欺にあっているか。 ←暴言


これもまた、私個人の意見で、いろんな考えがあって当然だと思うが、
気の合うところだけ付き合えるのが、ネットのよいところだと思うのだけど、ね?

ちょっとずつ、ビュッフェスタイルのように気のあう部分で複数の人と付き合って、
そういう部分部分でだって、友達と呼べると思うんだが、それは失礼に当たるのかな?
自分のよくわからない部分にまで、踏み込んでいくほうがずっと迷惑だと思うんだが……
どーなんだろう。


ブログにも実社会にも、共感を求めて乗り込んでくる人が多くて、
なんだかなあ……と、思います。