ブログ引越し検討中 (仮住まい)

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Let's think

   人は変わる........
       良い方にも、悪い方にも。

ハムレットの元に訪れた旅役者が発した 「皇子もお変わりなく」 のセリフに、
ハムレットは 「そう、見えるか?」 とだけ答える。

復讐を誓ってみたものの、疑心暗鬼にかかり、狂うことも叶わず、パニック状態の日々に言われたわけだが、
ハムレットでなくても、外から見たところで、内面の葛藤などわからない。


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女性の更なる社会進出だの、キャリアパスの多様化だの、子どもたちの理科離れだの.........
否応なく、そういうシンポジウムに駆り出されることが多い。

     こういう政策が必要なのは理解する。
     誰かがやらなくてはならないのもわかる。
     ただ、私がこの件に関して適任者なのだろうか、
     私が本来の研究の仕事を振り切ってまでやらなければならないことだろうか、
     というのが、いつもいつもついて回る疑問だ。


子ども達の理科離れと、考える力の低下は、大学職員でなくても目の当たりにしていることと思う。

    「説明書に書いてあるからって、もうちょっと考えてから手を動かしなさい」
                               という私に対して、恥ずかしげもなく
    「いちいち考えてから覚えてたり動いたりしてたら、この学校に入るだけの知識は持てなかった」
                                と、ホザいた学生がいたが、

彼らが理科系に進学しちゃったことの是非はともかく、
考えずにまず覚えてしまうのは、いずれは破綻する学習方法ではないかと思うのだ。

    加減乗除の法則を覚えずに、すべての組み合わせと答を覚えていたら、
    小学校一年生のひと桁の計算はどうにかなっても、すぐにどうにもならなくなるように、
    単純に記憶していくより、法則を覚えることや、法則探しのテクニックを鍛える方が、
    はるかに潰しがきくはずだと思う。

では、考える力やテクニックを取得するのは、いつごろなのだろうか?
幼児期? 小学生、中学生? それとも大学に入ってからでも間に合うのか?

脳科学的には諸説あってなんとも言えないが、
理科系一般としては、いわゆる考える力を養うのは、小・中学校だと思われているようだ。
                   http://blogs.yahoo.co.jp/green_zebra_2008/5136156.html
そりゃあ、そうだ、ヴァイオリンじゃあないが、遅けりゃ遅いほど取得が困難になるのは、自明だろう。


さて、前述の
   “女性の更なる社会進出だの、キャリアパスの多様化だの、子どもたちの理科離れだの etc”
の委員会や会議には、私を引き込んだ大先生とその仲間(一味?)がいる。
考えることとを専門とし、正しいことを正しいと公言することを邪魔されない、大学教授の集団で
とにかく、彼ら (私もちょっとだけ巻き込まれている) は仕事が速い。

現状を調べる、分析する、制度を作る、そのための金を霞が関から引っ張り出す...... 

霞が関側に味方になってくれる人がいたことも幸いしたが、
委員会で出てきたアイディアを次々と実現させていったように思う。

その彼ら (私はちょっとだけ) の前に立ちはだかったのが、初等教育の重要性と改革だ。
知識はともかく、考える力、考えようとする力を取得するには、彼らの手元に学生たちが来る大学では遅いのだ。

     大学教授である我々には何ができるだろう?
     どこの誰をつつけば良いのだろう?
     いや、初等教育までちょっかい出したら、越権行為だろうか?

     自分たちでやるべきところ、やれるところまではやったよね?


しょうがないなあ、と溜息をつくしかできなかった数年間。
   小学生の娘の思考力のなさとテキストやノートのシンプルさに、日々、肩を落としつつ......放置。


そして先日、
かの一味の一人から届いたメールは、

    「小学校の、校長になりました」

 「え゛~~ ~ ~ (@_@!!!!」

正攻法にもほどがある。
国立大学の教授だったのに。 研究費だって、せっせと稼ぐ人だったのに。

優秀な研究者が、優秀な教職員であるとは限らないし、
まして、大学から小学校に移るということは、すべてのことが変わってしまうだろう。
委員会の席で繰り広げられた議論が、現場の小学校教師からは、机上の空論と一蹴されてしまうかもしれない。

      なのに、それが、自分の仕事だと納得できたのだろうか?
      いや 納得したんだろうな....  きっと

      To be or Not to be なすべきか、なさざるべきか 
      考える必要のあることを、過不足なく考えれば 決して悲劇につながることなどないのだ。
                                   (……と、物理学者は信じてる)          

      効果、効率、採算......何がどう動くのが、どうやったら一番効果が狙えるか? 
      私は自分が計算高いと思っていたけれど、自分がまだまだ甘くて、まだまだ大胆さが足りなくて
      やはり自分の興味でしか動かないわがままな研究者であることが分かった。


しかし、まあ......
    胸張って転職していったであろう大学教授殿の 校長先生姿を考えるのも、悪いものではないね。






ここまでだったら、まじめな記事で終わるのだけど........気恥しさと劣等感も手伝って、自らチャチャ入れ。

冒頭のハムレットの台詞を探していて (映画だけの科白だったのか、オリジナルは見つからなかった)、
その代りに To be or Not to be だの、Get thee to a nunnery! だの を目にしたわけなのだが。

To be or Not to be
     ..........って 何をするかしないかなんだ? 
     「生きるべきか死ぬべきか?」なの? 話の流れ的に「復讐をするか、しないか?」 じゃないの?
     あまりにも有名だけれど、訳者の意思の入った名訳が独り歩きしちゃった感もありますな。
 
Get thee to a nunnery!
     これも有名な「尼寺へ行け!」なんだけど、wiki (信頼性はともかく) によれば解釈は二つあって、
     ①尼寺では売春が行われており、隠語で淫売屋を現わす言葉だった。
           つまりハムレットはオフィーリアに「売春婦にでもなれ」と罵った。
     ②文字通りに俗世間を離れ女子修道院(尼僧院)に入ってほしいと願った。
           オフィーリアには穢れた政治に関わらず昔のままに清らかな存在で……… 云々。

     何かピンとこないなあ。そもそも、ハムレットが狂気に陥ったのって、
     オフィーリアへの実らぬ恋....だとか言ってたわけでしょ?
     で、どー考えても、オフィーリアだってハムレットを憎からず思ってたはずで、
     でも、親に言われて(?)貞節を重んじるとか何とかで、
     だからハムレットがブチ切れて、そんなに貞操が大事なら、「尼寺でも行け~!」 って
                                           違うかな(^_^;

He's fat, and scant of breath.
     シェークスピアハムレットググると、
     舞台化されるとほとんど無視されるオフィーリアの科白
             「彼は太っているのよ! 息が荒いわっ」 なんてのも、いっぱいヒットします。
  
 なんか、お話、台無しですね。

       可能性をすべて考えればいいってわけじゃない、という典型のような気もします(笑)
       
 冒頭の写真は、これも私の愛するミッシャの描いた「ハムレット」 
 男装の麗人はサラ=ベルナールであります。