奇跡は誰のもの あるいは読書録 『武士道』
クリスマスになると、いつも少し考えることがある。
お抹茶BOY (上の娘も同じでしたが) の保育園の先生やお母様たちの話なのだが、
サンタクロースの存在を、子どもに信じさせようとする方、
そんなものはいないのだと、親がプレゼントを購入する旨を子どもに言っている方、
サンタクロースイベントさえしていない方....... 日本においてはさまざまである。
サンタクロースの存在を、子どもに信じさせようとする方、
そんなものはいないのだと、親がプレゼントを購入する旨を子どもに言っている方、
サンタクロースイベントさえしていない方....... 日本においてはさまざまである。
うちの子どもたちには特に何も説明しなかったので、しばらくはサンタを信じていた。
お抹茶は今も信じてると思う。 私がまくら元に置いた本を、サンタの仕業と思って喜んでいた。
(ちなみに彼は、去年はリアル消防車を貰ったのだと思っている)
「いい子にしていないと、サンタさんにプレゼント貰えないよ」
と、言っておいたので、12月の彼はわがままも言わず、比較的いい子だった。
お抹茶は今も信じてると思う。 私がまくら元に置いた本を、サンタの仕業と思って喜んでいた。
(ちなみに彼は、去年はリアル消防車を貰ったのだと思っている)
「いい子にしていないと、サンタさんにプレゼント貰えないよ」
と、言っておいたので、12月の彼はわがままも言わず、比較的いい子だった。
さて.........実際のところ、サンタの効用はこういうことじゃないかと思うのだ。
サンタを信じさせる=親の言うことを聞かせる
つまり、奇跡や神がかりなことがないと、教育がやりにくいから、サンタは使える、と、思うのだ。
道徳というのは、国によって異なることが多い。つまり、ユニバーサルでないことも多い。
違う考え方に立てば、従う理屈が存在しないことも多いのだ。
だから、道徳を納得するためには、何らかの理屈ではない説得力が必要になる。
道徳というのは、国によって異なることが多い。つまり、ユニバーサルでないことも多い。
違う考え方に立てば、従う理屈が存在しないことも多いのだ。
だから、道徳を納得するためには、何らかの理屈ではない説得力が必要になる。
そして、現代では 国=独自・単独の宗教 と一致させることが少なくなったが、
現代であってもなお、大抵の道徳は宗教に根差している事が多い、と、思う。
現代であってもなお、大抵の道徳は宗教に根差している事が多い、と、思う。
少し前、新渡戸稲造の 『武士道』 なんていう本を読んでいた。
冒頭に新渡戸がラブレー (ベルギーの法学者) から、
「宗教がなかったら、どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」
と、聞かれるエピソードが出てくる。
新渡戸は日本に欠落している宗教教育の代わりに、日本人の道徳観念は武士道に根差している
という論理を展開していくのだが…………
冒頭に新渡戸がラブレー (ベルギーの法学者) から、
「宗教がなかったら、どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」
と、聞かれるエピソードが出てくる。
新渡戸は日本に欠落している宗教教育の代わりに、日本人の道徳観念は武士道に根差している
という論理を展開していくのだが…………
サンタの奇跡 (空を飛んですべての子どもたちにプレゼントを分け与える) は、
キリスト教の道徳教育のためにあるのだと思う。
富める者も、貧しい者も、神様の前では平等。いい子にしていれば、プレゼントが来る。
加えて、サンタの仲間の牧師や神父の言葉を、信じさせる効果があるのかもしれない。
キリスト教の道徳教育のためにあるのだと思う。
富める者も、貧しい者も、神様の前では平等。いい子にしていれば、プレゼントが来る。
加えて、サンタの仲間の牧師や神父の言葉を、信じさせる効果があるのかもしれない。
だから、キリスト教教育を行わない日本で、サンタを信じさせる意味はない。
まして、「サンタはいない」 と自分の子どもに告げた子の親に、
「あなたの子どもは歪んでる」 などとねじ込んでいくような姿勢は、
キリスト教には合わないよね............
(お抹茶が信じているからと言って、私はサンタ実存説得派閥ではないのだ)
まして、「サンタはいない」 と自分の子どもに告げた子の親に、
「あなたの子どもは歪んでる」 などとねじ込んでいくような姿勢は、
キリスト教には合わないよね............
(お抹茶が信じているからと言って、私はサンタ実存説得派閥ではないのだ)