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花の命は短くて

シェイクスピアだっけ? もともとは。
花の命は確かに短いけど、人間の命だって、巨木に比べればはるかに短い。
                                                                まして星の一生に比べたら、一瞬だよね。
 
そうそう、はやぶさ帰ってきましたね。 お疲れ様です。
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古い知り合いで、少しの間、宇宙論をやっていた人がいる。
実験系に転向してきたものの、理論に強くて、実験データの解析なども得意だった。
非常にまじめな人で、装置の取り扱いもすぐに覚えてくれて、私は助かった。
ただ、予定が入っているのに急に仕事を休んだり、理由を言わずに早退したりするので、
やっぱり気紛れだから、一人で研究をする理論向きなのかな、と、思わないでもなかった。
それでも、仕事が遅れると夜中に来て帳尻を合わせたしりていて、
普段の真面目さと、突然の欠勤の関係がつかめず、不思議に思ったりしていた。
 
ずいぶんしてから私は、彼が家族の問題を抱えていると知ることになる。
 
 
 精神を病んだ彼の母親は、自殺未遂を繰り返し、時折、家を出て徘徊してしまう。
 企業の会社員である父親が対応できない時は、彼が母親を探しまわるしかない。
 裕福な家庭の人だ。1,2年就職しないで母親の介護をすることも可能だったと思う。
 でも、若いころの履歴書の空白は、次の就職に悪影響を及ぼすし、
 母親の病がいつまで続くか分からない。
 だから、企業の社員よりは時間の自由のきく、研究者や大学教授を目指すのだと、
 宇宙理論は面白いが、就職先が少ないから、ナノの実験系に転向したのだと、そう言った。
 
    宇宙は広い。気が遠くなるほど広い。
    時間のスケールも、気が遠くなるほど長い。
    そして、何も自分はわかって居ないと感じる。
    自分の悩みや苦悩など、ほんの一瞬のことだと、とるに足らないことだと、
    そんな風に思える。
    ポジティブな時は、そう考えられる。 
    学問に逃げていられる。
  
    でも、夜中に近所を走り回って、母親を見つけた時に、
    今ここで助けても、ほんの一瞬時間が違うだけで、人間の一生なんて所詮・・・・・・
    と、考えてしまったことがある  と。
 
その時自分が何と答えたかは覚えていない。
 「ナノや表面の実験はパラメータが多くて、研究ごとにどのパラメータに効果があるかが違って、
  やり方一つでどうにでもなるから、そんな運命論みたいなもんは考えないね。
  新しいネタ考えて、特許とって、明日の自分たちのために研究するだけだ」
そんな風に答えたのだったろうか。 
 
 
ロマンにしても、目先の利益にしても、科学の進歩に対する義務感にしても、
あるいはそこそこ楽でそこそこ社会的地位が高くて、などという打算的な理由だったとしても、
何もやりたいことがないから大学院でも行くか、という消極行動の帰結だったとしても
それまでの私は、研究者を目指す人達のベクトルは上を向いていて、
                                   少なくとも 「快」 を目指すものだと思っていた。
 
だから、今も、宇宙のニュースはドキドキして、でもちょっとだけ、チクっと痛むのだ。
自分が、花以上、宇宙未満の寿命を持つとわかって居ても。


 
(ちょっと話題を拡大)
研究者にとって仕事はプライベートとの距離が近くて、
自分の子供と遊びながら頭で解析法を考えてることもあるし、
食事の支度をしながら、新しい実験法を思いつくこともある。
だから、良くも悪くも生活に入り込んでいて、自分の考え方を左右してしまったりもする。
(たとえ倫理問題を抜き去ったとしても)、科学と哲学の関連を、時々考えるべきかもしれない、と、思いはする。

その一方で、自分の得意としない哲学やら倫理やらの生知識で制御をかけて、
本来の仕事である科学にブレーキをかけていいのだろうか、という思いもある。 
 
  どういえばいいのかな。
  その土地のことをよく知らない旅人が、はるかに続く道を眺めながら、
  一緒に案内してくれる地元民に気を使って、 「急がなくていいですよ」、という。
  案内の人は、彼の革靴に気を使って、遠回りの平坦な道を行く。
  でも、急ぎたいという要求をちゃんと伝えれば、地元の人は近道を知っているかもしれないし、
  旅人は、鞄の中に、トレッキングシューズを持っているかもしれない。
  知らない範囲の根拠と推測から気を使い、
  いらぬ遠慮をすることで、最良の道から外れているのかもしれない。
        (回り道で、新たな発見があるだのなんだのというのは、
                            話題的に横道にそれるから、パスね)
 
哲学&科学のすべてを理解し、オールマイティな人間として自分のすべきことを考えるには、
現代は情報と選択肢に溢れすぎている。
パラメータが多すぎて、自分の得意とするものしかカバーできない。
それなら、個人は自分の分野を追求し、それぞれが社会の中で共存し、配置されることによって
あたかも点描派の絵画のように社会全体として何かが描けていればいいのではないだろうか?
ただ、本来は、その手の外部コントロールが、国家であったり政治であったりするのだろうが、
少なくとも、現在、そのコントロールを預けられる政治体制は出来ていないような気がする。
そうなった場合、自分の中にブレーキなり制御機構を作って、不要な制御までしてしまうか 
         (必要な制御もできるのだろうが、不要な分もあると思うんだよね、専門外なわけだし)、
暴走するかどっちかなんじゃないかと思う。
予算がどうのこうの以前に、それは研究者にとっていいことじゃないと思うんだけどね。 
 


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