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毒杯のダイナミクス

 
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夏休みっぽい空だなあ & 関東って平野だね。
 
夫が夏休みで、お抹茶はパパに連動して学童クラブをお休みにして、
英会話合宿から帰宅した娘は、また部活三昧になって。
私だけが、仕事に来ている。 この期に及んで、某原稿締め切りが二週間前倒し、って、どーよ。
ああ、なんとなく、長距離通勤の電車も、空いている感じ。
 
長いので、先に一言で言っちゃうと、
 誤解や無知の上に構築された極論は、不愉快~                                                          という、記事です。
 


電車の中で、今回の原稿書きはなかなか難しいので、新聞代わりに携帯でネットニュースを読んでいる。
目には悪いのかもしれないが、新聞より小さくて、読みかけのページが分かりやすくて、便利だ。
ただ、ニュースを読んだ後に続くコメント欄の記述が、そのまま目に入ってしまって不愉快なことがある。
あるいは、このニュースを読んだ一般の人の反応はどうなんだろう、と、気になる記事、 
たとえば自然科学や医学系のものだと、あえてクリックすることもあるが、そこでのコメントを読むと
感情論か建前か以前に、記事本文を読むのに必要とされる、
   根底となる 『知識』 を、全く理解していないコメント
                                             が多くて、愕然とする。
 
例えば、ここ何日かだと、脳死判定者からの、臓器移植の話題があったが、
          http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100809-00000554-san-soci
          (ドナー患者の感謝を記事にするなど、方向性を決めてしまっているニュースも良くないのだが)
脳死植物状態の違いを理解せずに、親族同意による臓器提供に激昂しているコメントを見かける。
曰く 「植物状態でなら生きていけるのに、いつか目を覚ますかもしれないのに、殺してしまうのはけしからん」
            キーワードの説明が、すぐ下に出ていたり、関連記事見ればわかることなのに、
            怒りに目が眩んで、目に入らないのだろうなあ
      (もちろん、脳データのバップアップがとれる時代になれば、可能性が皆無じゃないけどさ←無茶苦茶)
 
政治や犯罪関係の記事にも、
前向きというよりは、とにかく誰かをバカにして、文句をつけるのが目的のようなコメントが多い。
欠落した知識の上で、論客バリの言い回しで、独自の議論を展開する。 
政治も歴史も法律も弱い私ですら疑問に思うコメントがあるのだから、
法律知ってる人だったりしたら、突っ込みどころ満載なんだろうな、と、思う。
 
    #ま、ブログ見てても、そういう人、いるけどさ。
 
    #それなりにコメント交換をする人には、「それって、根底が違ってないですか?」
    #と、内緒でコメントすることもあったが、埒があかないので最近はやめました。
    #と言いつつ、自分が間違ったり、知らないことがあるときは、私は言って欲しいです(苦笑)
 
    #法律の蜃ちゃん、私は政治音痴かもしれないけど、聞く耳は持とうと思っているので、よろしく。
 

 
さて........... コメント類ではなく、自分が生み出す作品に、自分の考えを溶け込ませる人たちがいる。
それは、強い主張である時も、作品全体を流れる気配になっている時も、
あるいは、主人公たちの所作に、ひょい、と現れるものの時もある。
 
その人の描く登場人物は、一見、投げやりで、厭世感に満ちていることが多い。
でも、彼らの発言は、
       どうでもよくないから、 「この際それは、どうでもいい」。
       悩んだ挙句の、 「知ったことか」。    で、あるような気がする。
考えて、考えて、時には絶望して、自分にはどうしようもないけど、
でも話題から外して、放置することができないときに、あえて 「どうでもいい」 と、記述するのだろう。
 
「心から、どうでもいいと思っているよ」 と、その人は言うかもしれない。
でも、何かを突き放すとき、 その人はちゃんとその何かを認識している。 根底となる知識がないわけじゃない。
存在すら知らないで、考えもしないで、話題にあげないのとは違う。
 
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ああ、毒杯を仰ぐのに似ているかもしれない。
   毒が入っているかもしれない、
         入っていないかもしれない、
誰の手で運ばれた?
        毒見はすでにされている? 
この酒席で乾杯を拒否したら、今後、どうなるだろう?
    民衆は気を悪くするだろうか?
 
そんなことを思いながら、
でも、その場ではどうすることもできず、
ままよ、とばかり乾杯する。 知ったことか、と。     
                       将軍は死んでしまうかもしれないけれど。
 
  「だって、何ができる?」 と、言うその言葉の裏には、
  考えて、実行の可能性も計算して、その上で、何かが出来る結論にならなければ、
  偉そうに口を出すべきじゃないと考えているのが見える気がする。

 
大抵の社会現象も事件も、一筋縄ではいかない。

核兵器原子力発電も、宇宙開発も、果ては最先端医療やクローン産業も、
加害者側と被害者側に振り分けきれない、考え方や情報がある。
どこまで考えるか、何を切り捨てるか、利益を捨てて (or 利益計算をきちんとして) 判断するのは難しい。
 
だから、人によっては、知るもんか、という結論になる。
もちろん、難しくても、答えを出さなければならない立場の人たちはいるだろう。
褒められたことではないが、故意に、一部の情報を揉み消す (知らないふりをする) 場合もあるだろう。
立場云々は関係なくても、とにかく自分の意見を発表したい人もいるだろう。
 
物理用語でダイナミクス(動力学:運動(つまり時間変動)を含めた力のつり合いを取り扱う学問)というのだが、
時間変動と触媒作用を考えずには、ニュースや評論は読めない。
その中で、法律や科学知識 (ときどき流動的?)が、カイネティクス(静力学:作用反作用などの力の
つり合いを研究する学問)に当たるのだろう。
カイネティクスなくして、ダイナミクスは論じられない、よね? (←理系(バイオを除く)にしか説得力ないかも)
 
 

      論じても解の得られない諸悪に、主人公たちは 「知るものか」 と、背を向ける。
         それはもしかしたら、あえて書かないことで、読者の想像を広げさせる、
                   小説のテクニックなのかもしれない。
 
      解は知らない、答えはいらない。 でも、思い悩むのは自由。 切り捨てるのも自由。
 
   私はその主人公たちの厭世感と、暗雲が広がるような、潔い 「どうでもいい」 が、好きだったりする。
 
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すぐ上の写真は、この間の花火の時の江戸川、
冒頭の写真は、今日の雲。 職場からなので、限定記事で。