ブログ引越し検討中 (仮住まい)

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余震の中を移動

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ホテルオークラ カフェテラス 『カメリア』 のランチ 
 
 
世界最大級の地震でした。
 
3時から業者さんの打ち合わせ予定があったので、
見学に来ていたミャンマー出身の研究者に、お別れの挨拶していたあたりで、揺れが始まりました。
研究所のオフィスビルの8階で、もともと揺れが大きく感じるので、
      (↑実験棟の方が作りが頑丈)
はじめの頃は、この建物は新しいし、頑丈だから大丈夫ですよ、と、
外国人である訪問者に、安心しているよう伝えたのですが、
揺れが止まるどころか、だんだんに強くなってきて、
「この地震、ヤバいかもしれない」 と、同僚が言った直後、急激に揺れ幅が大きくなりました。
 
揺れが大きく、立っていられないのはもちろん、
机の上のデスクトップが落ちたり、固定されていない机やコピー機などが床を滑り、
建てつけの本棚の開き戸を弾き開けて本が降ってくるなど、
これまでに経験したことのない地震でした。
その最中に、停電。
 
   揺れている中で祈るのは、いつも一つの事で、
         「子どものいる東京が震源でありませんように。家族の中で、私が一番震源に近いように」
 
すぐにバックアップの電源が入ったようで、廊下などに電気がつきました。
机から落ちたものを片付けようとする同僚に、
余震が来るかもしれないから、外へ、と、階段を下りるように促しました。
地震を知らない国の外国人研究者たちにも、とにかく外に出て、建物から離れて、と
ドアごとに叫んで一緒に階段を下りて建物の外に出ました。
前々日の昼ごろにも大きな地震があったので、非常用の荷物や靴などを手元に出していたのも幸いしました。
 
        #いざという時には、それぞれの会社から長距離を歩いて都内に戻る事を考え、
        #私も夫も、トレッキング用の靴と、ライトなどを職場においてあります。
 
最悪、そのまま部屋に戻れない事を考えて、上着とそれらの荷物を持って出ました。
 
 
我が研究所の玄関ホールは洒落たガラス張りです。落ちてきたら大惨事です。
多くの研究者たちが、建物の外に出ていました。
ロッカーに上着などあるオフィスではなく、会議室から直接出てきた人など、寒そうでした。
携帯で、震源が東北であるということを確認した人がいました。
     東北震源なのに、つくばでこの強さ、この被害……・不安がよぎります。
 
外国人研究者で、日本語の話せない家族がいる人に対して、いったん自宅に戻れ、と促し、
学生たちには、研究所の方が安全だから、下手に移動しない方がいい、と、指示しました。
その頃、ハンドスピーカーを持った研究所の安全管理係から、
余震の間に、出来る限り実験室のブレイカ―を落とすように、との指示がありました。
ただし、薬品室に入るときは、気をつけるように、と。
一部の建物で、火事の警報が出ていて、事故対策の部署は、そちらにかかりきりになっています。
信号機が停電なので、守衛さんたちは、研究所を出ようとする車(正門の外が信号)の誘導をしています。
それぞれの実験室、装置から、エマージェンシーの警報が鳴り響いていたので、
続く災害を避けるためには、仕方のない事でしょう。
 
いくつかの実験棟に散らばる自分のラボに入り、装置の真空が破れちゃったな、と嘆きながらも、
一つ一つ見ている時間はないので、ガスのボンベを大元で閉めて、メインブレーカーを落としました。
幸い、自室の薬品庫は倒れていなかったので、
倒れそうなガラス製品は、すべて床におろして、部屋を出ました。
その時点で、はじめの地震から1時間後くらい。 その間も何度となく余震が来ていました。
 
家族と連絡を取ろうと必死でしたが、私のボーダホンは不通、AUもダメ。研究所内のPHSもダメです。
ドコモの携帯が生きていて、友人の電話から、夫の会社と連絡が取れました。
お抹茶BOYを私が担当、娘を夫が担当で、とにかく子どもたちの安全確認をしよう、ということに決めました。
 
余震が収まってきたので、一度8階に戻ろうと、オフィスビルに戻ったところ、
廊下と階段が水浸しになっていて、エレベーターはおろか片側階段も使えなくなっていました。
かろうじて通れたもう一つの階段で、すれ違う人達と安否確認、
他にも、窓ガラスが割れている部屋があったり、
化学室はとんでもない匂いがしていて、入室できるものではなかった、と言っている人がいたり、
どうしていいか分からずに困っている外国人研究者のグループがいたり。
  (やはり同じ国の人で固まりますね。日本語を話せる人もいるので、情報を共有してもらうには助かります。)
余震の中で片づけをする気にもならず、上司もひとまず自宅に向かった方がいいと言うので、
いったん家に飛んで帰った(研究所の近くに住んでいる)人達が、戻って来るのを待って、
遠距離の我々も自宅に帰ろうと言うことになりました。
 
信号機は停電していましたが、当然、鉄道も動いていないので、
「車で帰るから何人か乗せて行く」、と電話してきてくれた取手の同僚Yさんと、
その先まで帰る柏の同僚Mちゃん(普段は車通勤だが、偶然電車で来ていた)と3人で、研究所を後にしました。
今は柏在住のMちゃんは関西出身で、阪神淡路の震災を良く知っています。
最悪、途中から歩くことも考えて、小型のラジオを複数、充電器などをかき集めてきてくれました。
 
その時の、予定はこうです。
取手に子どものいるYさんが、二人を乗せて取手まで行く。子どもの無事とTVで道路状況など確認したら、
私とMちゃんを、我孫子あたりまで車で運ぶ。 
それより先は下り線が混みあうだろうから、我孫子、柏間は徒歩にする。
柏から東京までは、少なくとも上りならばそんなに混んでいないだろうから、
Mちゃんの車で都内まで行って、Mちゃんは帰りが大変なら、私の家に泊ればいい。と。
 
   車の中から、何度かお抹茶がいるはずの学童クラブや、娘の携帯電話にコールしました。  
   娘の携帯は不通でしたが、学童クラブの方は、先生が出てくれて、けが人はいないし、
   親が戻るまで何時まででも預かるから、大丈夫ですよ、と、力強い言葉をいただきました。
 
道中、信号の多くは消えていて、ぽつぽつと窓ガラスの割れた家、瓦の落ちた家がありました。
車が止まっているときに余震が来ると、車体がフォンフォン動きます。
それでも、6号(水戸街道)に出ると、渋滞していそうだったので、
車通勤の二人が自分の知っている裏道を駆使して、2時間以上かけて取手市に。
ドライバーのYさんには小学生のお子さんが二人います。旦那さんは海外出張中です。
連絡は取れないものの、お兄ちゃんは6年生だから、
きっと弟を連れて学校から帰って、自宅にいるだろう、と、彼女は予想していました。
 
取手に近付くにつれて電気のついている建物が多くなっていたので、安心していたのに、
ご自宅付近は停電で真っ暗。
お子さんたちは、(明るいうちに)落ちていたガラスの破片を拾ったあと、
懐中電灯の明かりの中、肩を寄せ合ってゲームをしてました。 偉かったね。
 
  その頃、私も夫と連絡が取れ、夫は帰宅手段が全くなく、会社に泊ること、
  娘も移動手段がないので、学校に泊る旨を確認しました。
  食事も出るから大丈夫だって・・・・・・・・・・ 
  会社の固定電話からかけているので、夫の方が連絡が繋がりやすいらしく、
  私が何度かけても繋がらないシッターさんとも、話してくれたようです。
 
懐中電灯で、ロウソクや水を探したり、ラジオを探したり、携帯電話で情報を調べているうちに、
電気が戻りました。・・・・・・・・・・・・・明かりって、なんて安心するんでしょう
ネットも生きていたので、同僚YのPCで、娘の学校のサイトを見ると、
子どもたち(400人弱)には、食事をさせて、宿泊準備もした、とのこと。
24時間対応にするので、いつ迎えに来てくれても大丈夫だし、心配なら電話をよこしてくれ、と、
トップページに書かれていました。
           非常にありがたいけど、・・・・・・・・・・・食事、どこからかき集めてるんだろう?
 
Yさんは歩いていける距離まで、少しでも東京の近くまで送って行く、と言ってくれて、
今度はお子さんたちも車に乗せて、都内方向へ。
ところが、利根川に架かる橋に向かう道が、全く動きません。
子どもたちの居場所がわかったのと、送ってもらったら、彼女らが自宅へは戻れなくなりそうだったので、
いったん、Yさんの家に戻って様子を見る事にしました。
幸い、柏が自宅のMちゃんの奥さんは、帰省して関西に居ます。
その晩はYさんのお宅に泊めてもらうことにして、カップ麺と、おにぎりの夕食を取りました。
 
テレビでは、被害の大きさがわかる映像が流れていて、
東京周辺でも帰宅難民の困っている様子が映し出されます。
断水していて、トイレなどは不自由でしたが、同僚の家の布団で眠れた我々は、ラッキーでした。
 
翌朝も、電車が復旧したと言うので、駅まで行ったら、また止まってしまっていたり、
途中駅で1時間以上待ったりと、かなり苦労をしましたが、夕方になってやっと、
夫や子どもたちと会うことが出来ました。 
つくばから、葛飾の自宅まで、24時間かかったことになります。
その日のうちには、取手以北の常磐線つくばエクスプレスも動かなかった事を見ると、
最良の場所で宿泊させてもらったことになります。
娘も、帰宅に使う路線がすべて動くのを学校で待ってから 
(学校で朝ごはんも食べて)、帰ってきていました。
 
東京は交通機関が動いていないだけで、嘘のように平和でした。
水も、電気も、ガスも、ライフラインは問題なく、スーパーも通常通りやってました。
夫が迎えにいった午後2時、お抹茶はシッターさんと一緒に、近くの公園に遊びに行っていたそうです。
とても元気でしたが、シッターさんの話では、いつパパやママが迎えに来てもいいように、と
玄関に一番近い部屋で眠ったのだそうです。
昨日も今日も、ちょっとヒステリックに甘ったれて遊んでます。
 
娘に、貴方の学校の先生は、どうやって400人からの食料やみそ汁を集めていたのか、と聞いたら、
戦前からある学校だから、何度か火事や災害にあって、備蓄米や非常食を用意しているのだ、と聞きました。
それを、巨大な家庭科室で炊飯して出していたそうです。
また、先生からは、この学校は災害慣れしてるから平気だし、HPに君たちがここに泊ることを書いたから、
親御さんたちはそれを見て安心しているはずだ、と伝えられてそうです。
何度も災害にあっていたとはいえ、その当時の先生がいらっしゃるわけもなく、
HPや、携帯電話を利用した連絡報があったわけもなく、だから、学校自体の伝統なのでしょう。
頭が下がります。偏差値はそんなに高くない学校ですが、娘の学校に選んで、よかったと思いました。
 

 
研究所で、ひっくり返った本棚などを撮影しようかとも、一瞬思いましたが、
他にやることがたくさんあったのと、似たような写真をアップするブログも多いだろう、と、控えました。
冒頭の写真は金曜日のお昼、つまり地震の前にミャンマーの研究者と一緒に食事をしたときのものです。
遥か昔のことの様な気がします。
今も、つくば地区は断水が続いていますが、震源に近い方たちは、それどころではないでしょう。
多賀城の友人とは、連絡が取れません。
 
被害が少しでも小さいように、また一日も早い復旧を祈っています。