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専門家の訃報

訃報の話題が続くが――――

母校にある工作工場の話を、何度か書いている。

理学部の付属施設である工場には、18歳で就職してきた工員さんたちがいて、
でも、工員さんである以上に、理学部の大学生にとっては工作技術を教えてくれる先生で(←実習講義がある)、
理学部教授たちも彼らを教員として扱っているから、
事務職員たちよりもずっと教員・教授の立場に近い気がする。
その分プライドも高くて、大学に付属の工場なのだから、普通の工場ではできないことができなければダメ、
と、特殊な実験装置の作成も、必ず引き受けてくれる。
世界で誰かが作っているのなら、同じ方法で自分たちも作れるはずだ、と。
世界で誰も作っていなくても、その装置が出来たら、世界で誰もやっていない研究ができるわけだよね、と。

工員さんたちはお酒も大量に飲む。

5時に工場を閉めて、念入りな清掃をして、
時にはそれから図面をいじっていることもあったようだけれど、
大抵は、工場内の係員室で飲み始める。
工場に明かりがついていると、質問や相談に行く学生もいるから
(「そんなことより飲め」、と言いつつ、答えてくれる)、
学生たちが巻き込まれる。助教や、教授も呼ばれる。

酒豪がそろっていたけれど、その辺は学生の面倒見の良い彼らだから、
学生にはちゃんと酒の飲み方を教えつつ、自分たちも楽しんでいる。

初代の工員さんがその雰囲気を作ったのだろうか。
彼らは、学習院の職員宿舎(学内にあった)に住んでいて、
学会前に壊してしまった装置の修理を、夜中まで手伝ってくれたりもしていたのだそうだ。
私が学生の頃には、初代からのスタッフだったHさんはすでに定年間近で、
彼が育てた若い工員さんたちが講義をしてくれていたのだが、
それでも、難しい工作物の相談は、Hさんが担当していた。

工作工場が閉鎖 (正確には移転) した時の記事……・ Hさんの米寿のお祝いの記事。
.        http://blogs.yahoo.co.jp/green_zebra_2008/33245838.html


今週の水曜日、いっしょに鴨を食べに行った先生方は全員、母校の工作工場をよく知る方たちで、
「色々作ってもらったなあ」、という話になった。
彼らは別の大学に所属していた先生方だが、当時、特注装置を作れるところは少なかったから、
ツテを伝って、学習院の工場に出入りし、不思議な(?)装置をくみ上げていた。

金曜日、研究所に遊び(?)に来た営業さん(学習院のOB(たぶん10歳くらい上))と、
「Hさんの卒寿のお祝い、やりそびれたから、今年中にどう?」  「手伝う?」
なんて話をして、ついでに同じ研究所の同窓の人を呼び出して、ちょっと打ち合わせをしたりした。

つまりは、今週は2回も、工場話題が出ていたわけだ。

(営業さんとおしゃべりをしていたのは昼休みなのだが)、同じ金曜日の午後2時ごろ………
「卒寿どころじゃねえ、今朝、亡くなったそうだ」 と。
「今朝??? 今朝、って………」
「日程調整の電話をしようと思っていたら、あっち(工場のスタッフ)から電話がかかってきたんだ」


              

夫と一緒に、通夜に行ってきた。
水曜日に会った先生方、昨日Hさんの話題で一緒だった営業さんや、同窓の同僚……
受け付けは、Hさんに18歳から育てられた工員さんがやっていた。

「来てくれて、ありがとう」、
「2週間前は、温泉に行きたいって、旅行計画を立ててたんだよ」
「一週間前まで、散歩してたし」、
「急遽入院、ってなっちゃったけど、一昨日、見舞いに行った時は喋ってたんだ」
ほんの2,3人の工場で、何十年も一緒だったら、身内……親戚みたいなもんなんだろうな。

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私は学習院の工作工場で、工作実習を習った。
図面の引き方や、旋盤のまわし方を教えてもらった。
形のあるもので、自分に作れないものは何もないのだと、そういう考え方を教えてもらった。

工場は建て替えられ、移転して、スタッフは少しずつ変わったけれど、
きっと、この姿勢や考え方、空気感はずっと受け継がれていくのだろう。


Hさんが退職して20年以上過ぎて、年齢も90を過ぎて、
悲しいけれど、きっと大往生、なのだろう………

ご冥福を祈ります。