洗脳された我々が、理系が扱う日本語を考える
「理科系の作文技術」は、木下是雄先生が書かれたロングセラーかつ、ベストセラーだ。
wikiには去年のデータとして発行部数は95万部、と、なっているが、
先ほど伺った中公新書の方の話では、現時点で97万部になったのだそうだ。
毎年、1万部は増版しているから、今後100万部を超えるのは確実、とのこと……
母校の名誉教授だった木下是雄先生が亡くなったのは、昨年の春のことだ。
私は、正確には木下先生の弟子ではなく、孫弟子にあたる。
それでも日本語の厳しい先生に、論文ばかりか通常会話の言葉さえ、ちょこちょこと直していただいていた。
昨年、研究室のOBやいつもの新年会メンバーで、木下先生を送る会を行った。
だか、その時には出版社の方たちが参加できる集まりは行えなかった。(←我々では把握し切れなかったので)
東京大学の方たちや、学習院の他学部の方たちが集まれるお別れ会も行っていない。
そういう理由だったのか、今日、学習院大学で「木下是雄先生を偲ぶ会」が開催された。
そうだ、木下先生は当たり前のように、皇族とお付き合いのある方だったんだ。
「理科系の作文技術は、米国のComposition理論を受けて書かれた何冊もの研究書に、
読み手に届くような書き手の工夫を重視したComunication理論を加え、
Comunication & Compositionでなんチャラかんチャラ……」
偲ぶ会でご講演なさった出版社の方たちは、あの書籍がいかに画期的だったかを力説してくださった。
が、木下先生の教えや、今ある理系の論文技術に慣れてしまった我々には
読み手を想定して、その人に伝わるように書くのは当たり前じゃん? と、なって、感動がなかった。
良くも悪くも、木下先生に洗脳されてるんだろうなあ、と、思う。
木下先生のお仕事の一つに
(もともとは理系のレポートの書き方などを解説しているうちに派生したのだと思うが)
国語教育の在り方を考えることがあったようだ。
物理学関係の書籍やエッセイのほかに、50報を超える「ことば」関連の論文などがあるらしい。
一つは、「ことば」や、「書き方テクニック」そのものの論文、
そして「ことば」や「書き方テクニック」をどう教育していくべきかという論文だ。
「教育」ということにこだわってらして、(当時の)国語教育は、外界の物事を適切に記述する
――たとえば絹やナイロン生地に触って、どういう手触りかを表現させる――指導が欠落している、
と、問題提起されていたそうだ。
ところが、「心象を書くことこそ日本語である」、と否定され、問題提起は国語学者の耳に届かなかったようだ。
。o O *1
また、1976年に書かれた文献では、
「<られる>から<れる>への転訛」と題されて、いわゆる “ら抜き言葉” に言及がされている。
木下先生は、「可能性をあらわす<られる>が<れる>に転じる変化が、急激に進みつつある。
そのうちに可能の<られる>は無くなってしまうのではないかと思われる」 と書いている。
ところが、国語審議会は1990年になって、“ら抜き言葉” を 「間違った表現」 として、否定する。 う~ん
先端的で激しい議論に慣れている木下先生(達)が、なぜ国語審議会に入らなかったのか、
まあ、激しい議論は国語学者たちには嫌われるのかもしれないな。
田崎先生じゃないけど、
「小中学校の理系教育がなってない、ってよく言われるんだけど、国語教育の方がもっと課題がデカいよね」
今の国語の教育は、「絵筆の使い方を教えずに、感受性を磨いて、「絵を描け」と言っているようなもの」で、
絵筆の使い方をまず教えてやらないと、いくら「どう思うの?」「何を感じたの?」と、聞いたって、
小学生たちは答えを伝えてこれない、と言うのだ。←ら抜き言葉だ♪
ちなみに、本日は田崎先生のご講演も久しぶりに聞いた。 ←ご本人の雑文をリンクしてみた
相変わらず、テレビ中継してもウケるんじゃないかと思うくらい、面白いお話をする。
今日は木下先生の文章表現にかまけての、「明日の科学(……中身は「物理と情報」)」の講演だったが、
彼の話を聞くと、つい、元文献を読んでみたくなる。
学生をノせるのも、研究者をノせるのも、うまいんだよなあ。
備忘録的に、マックスウェルの悪魔と熱力学、 情報を利用した機関の熱力学第二法則
おおざっぱにいうと、位置エネルギーを速度(←ブランコね)や回転(←滑車の回転ね)などの
運動エネルギーにすると、それをもとの位置エネルギーに戻すことができる(←可逆反応)けど、
位置エネルギーを温度などの熱エネルギーにしちゃうと、元に戻せない(←不可逆反応)。
だが、分子の動きを一個一個を動かせる機関(←こいつがマックスウェルの悪魔ね)が実在したら、
元の位置エネルギーに戻せるかもしれない。
つまり、上から来た分子は通し、下から来た分子は通さない、というYesNoだけの振り分け作業のような。
とはいえ、これができれば、部屋の中の空気を酸素と窒素とにわけるとか、
インクで色を付けた水からインクだけを集めて取り出すなんてことができるわけなんだけども。
でも、たしかに、分子構造が風車みたいな形をしていて回ったり、
特定分子だけ引っ張ってくる生体反応なんかを考えると、マックスウェルの悪魔ごっこをしているわけだ。
さて。
日本語独特の文末表現の話題が出たせいで、出席なさった先生方が、一日中、表現にこだわって話してらした。
このあたりになると、言語学うんぬんよりも、言葉を使って真面目に遊んでいるようである。
いわく、「……と、考えられるのではないか、と、思われるのである」 なんていう表現である。
「お詫びを申し上げたく思います」 っていうのは、これから謝ろうと思っている、というだけで、
実際にはまだ詫びてないんじゃね? なんてツッコミをしあっている。
「これから、〇○の会を始めたいと思います。」 ←よく使うよね(笑)?
英語に訳そうとするととんでもなく面倒な文章になって、何を言っているのかわからなくなる。
まあ、英文論文を書き慣れるうちに、どうにでもなると言えばどうにでもなるな
断言型で記述しておいて、パラグラフの最後で I believe ~ と書くと途端に「推測です」ってなるんだよね。
「信じてる」と強調することで、主張が(独断に基づくものだから)弱められるっていうのは、
日本語会話に置いて、同表現を聞いた日本人が受ける印象と同じで、ちょっと面白いのだけど。
これも備忘録。
懇親会で、目白のリュド・ヴィンテージという結婚式場(!?)に行ったのだが、
邸宅風の造りで、料理はおいしいし、サービスも良くて、値段だけあるなあ、と言うお値打ち会場でした。
うん、フォアグラって、このくらいの味が美味しいな♪
ズッキーニの食べ方も、今度のクリスマスパーティにやってみようっと。
普段のレストランとしては、利用できなさそうなのがちょっと残念。
wikiには去年のデータとして発行部数は95万部、と、なっているが、
先ほど伺った中公新書の方の話では、現時点で97万部になったのだそうだ。
毎年、1万部は増版しているから、今後100万部を超えるのは確実、とのこと……
母校の名誉教授だった木下是雄先生が亡くなったのは、昨年の春のことだ。
私は、正確には木下先生の弟子ではなく、孫弟子にあたる。
それでも日本語の厳しい先生に、論文ばかりか通常会話の言葉さえ、ちょこちょこと直していただいていた。
昨年、研究室のOBやいつもの新年会メンバーで、木下先生を送る会を行った。
だか、その時には出版社の方たちが参加できる集まりは行えなかった。(←我々では把握し切れなかったので)
東京大学の方たちや、学習院の他学部の方たちが集まれるお別れ会も行っていない。
そういう理由だったのか、今日、学習院大学で「木下是雄先生を偲ぶ会」が開催された。
そうだ、木下先生は当たり前のように、皇族とお付き合いのある方だったんだ。
「理科系の作文技術は、米国のComposition理論を受けて書かれた何冊もの研究書に、
読み手に届くような書き手の工夫を重視したComunication理論を加え、
Comunication & Compositionでなんチャラかんチャラ……」
偲ぶ会でご講演なさった出版社の方たちは、あの書籍がいかに画期的だったかを力説してくださった。
が、木下先生の教えや、今ある理系の論文技術に慣れてしまった我々には
読み手を想定して、その人に伝わるように書くのは当たり前じゃん? と、なって、感動がなかった。
良くも悪くも、木下先生に洗脳されてるんだろうなあ、と、思う。
木下先生のお仕事の一つに
(もともとは理系のレポートの書き方などを解説しているうちに派生したのだと思うが)
国語教育の在り方を考えることがあったようだ。
物理学関係の書籍やエッセイのほかに、50報を超える「ことば」関連の論文などがあるらしい。
一つは、「ことば」や、「書き方テクニック」そのものの論文、
そして「ことば」や「書き方テクニック」をどう教育していくべきかという論文だ。
「教育」ということにこだわってらして、(当時の)国語教育は、外界の物事を適切に記述する
――たとえば絹やナイロン生地に触って、どういう手触りかを表現させる――指導が欠落している、
と、問題提起されていたそうだ。
ところが、「心象を書くことこそ日本語である」、と否定され、問題提起は国語学者の耳に届かなかったようだ。
。o O *1
また、1976年に書かれた文献では、
「<られる>から<れる>への転訛」と題されて、いわゆる “ら抜き言葉” に言及がされている。
木下先生は、「可能性をあらわす<られる>が<れる>に転じる変化が、急激に進みつつある。
そのうちに可能の<られる>は無くなってしまうのではないかと思われる」 と書いている。
ところが、国語審議会は1990年になって、“ら抜き言葉” を 「間違った表現」 として、否定する。 う~ん
先端的で激しい議論に慣れている木下先生(達)が、なぜ国語審議会に入らなかったのか、
まあ、激しい議論は国語学者たちには嫌われるのかもしれないな。
田崎先生じゃないけど、
「小中学校の理系教育がなってない、ってよく言われるんだけど、国語教育の方がもっと課題がデカいよね」
今の国語の教育は、「絵筆の使い方を教えずに、感受性を磨いて、「絵を描け」と言っているようなもの」で、
絵筆の使い方をまず教えてやらないと、いくら「どう思うの?」「何を感じたの?」と、聞いたって、
小学生たちは答えを伝えてこれない、と言うのだ。←ら抜き言葉だ♪
ちなみに、本日は田崎先生のご講演も久しぶりに聞いた。 ←ご本人の雑文をリンクしてみた
相変わらず、テレビ中継してもウケるんじゃないかと思うくらい、面白いお話をする。
今日は木下先生の文章表現にかまけての、「明日の科学(……中身は「物理と情報」)」の講演だったが、
彼の話を聞くと、つい、元文献を読んでみたくなる。
学生をノせるのも、研究者をノせるのも、うまいんだよなあ。
備忘録的に、マックスウェルの悪魔と熱力学、 情報を利用した機関の熱力学第二法則
おおざっぱにいうと、位置エネルギーを速度(←ブランコね)や回転(←滑車の回転ね)などの
運動エネルギーにすると、それをもとの位置エネルギーに戻すことができる(←可逆反応)けど、
位置エネルギーを温度などの熱エネルギーにしちゃうと、元に戻せない(←不可逆反応)。
だが、分子の動きを一個一個を動かせる機関(←こいつがマックスウェルの悪魔ね)が実在したら、
元の位置エネルギーに戻せるかもしれない。
つまり、上から来た分子は通し、下から来た分子は通さない、というYesNoだけの振り分け作業のような。
とはいえ、これができれば、部屋の中の空気を酸素と窒素とにわけるとか、
インクで色を付けた水からインクだけを集めて取り出すなんてことができるわけなんだけども。
でも、たしかに、分子構造が風車みたいな形をしていて回ったり、
特定分子だけ引っ張ってくる生体反応なんかを考えると、マックスウェルの悪魔ごっこをしているわけだ。
さて。
日本語独特の文末表現の話題が出たせいで、出席なさった先生方が、一日中、表現にこだわって話してらした。
このあたりになると、言語学うんぬんよりも、言葉を使って真面目に遊んでいるようである。
いわく、「……と、考えられるのではないか、と、思われるのである」 なんていう表現である。
「お詫びを申し上げたく思います」 っていうのは、これから謝ろうと思っている、というだけで、
実際にはまだ詫びてないんじゃね? なんてツッコミをしあっている。
「これから、〇○の会を始めたいと思います。」 ←よく使うよね(笑)?
英語に訳そうとするととんでもなく面倒な文章になって、何を言っているのかわからなくなる。
まあ、英文論文を書き慣れるうちに、どうにでもなると言えばどうにでもなるな
断言型で記述しておいて、パラグラフの最後で I believe ~ と書くと途端に「推測です」ってなるんだよね。
「信じてる」と強調することで、主張が(独断に基づくものだから)弱められるっていうのは、
日本語会話に置いて、同表現を聞いた日本人が受ける印象と同じで、ちょっと面白いのだけど。
これも備忘録。
懇親会で、目白のリュド・ヴィンテージという結婚式場(!?)に行ったのだが、
邸宅風の造りで、料理はおいしいし、サービスも良くて、値段だけあるなあ、と言うお値打ち会場でした。
うん、フォアグラって、このくらいの味が美味しいな♪
ズッキーニの食べ方も、今度のクリスマスパーティにやってみようっと。
普段のレストランとしては、利用できなさそうなのがちょっと残念。
*1:自分の経験や判断力を加味した「心眼」を「肉眼」として使うことは可能だが、
心だけで目がなくては、何もできない、というあたりが、木下先生のご主張か