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読書録 『張込み』  ---鍵つき感想文---

実はちょっと前に読み終わっていたのだが、悪口雑言の嵐になりそうだったので、控えた。
感想文としては初めて、鍵記事にする。

松本清張 『張込み』 光文社文庫 読了


まず、(偉そうに言うようだが) 小説としての出来は、申し分ない。
一文一文が短く、話の進みが速いために、気付くと最後まで読み進んでいる。
登場人物の感情を描いていないわけではないのだが、シンプルで淡々としているために、
それで引っかかるということもない。
強いて言えば、登場人物たちの考え方の一部が現代の考え方とあまりにもかけ離れているために、
非常に刹那的で独善的に思えることか。

独善的といえば、学歴はないが才能のある人物が、素晴らしい研究や作品を作っていながら、
帝大系の教授や大御所の俳人から排除され、不幸なままに生涯を閉じる、という作品が3作続き、
主人公の性格がそろいもそろって、虚栄心と劣等感で凝り固まっていたり、
大学関係者もステロタイプだったりしたので、読んでいて食傷気味になった。

作品数の多い作家だから、同じような傾向のものばかり集めて短編集を構成したのかもしれないのだが。


さて.......

それならなぜそんなに悪口雑言を吐きたくなったのか。

確かに、小説の中での女性の扱いはひどい。
ただ、それは、自分の親や祖父母の世代と自分の女性感のギャップから比例係数を出して、
作品当時の時代まで直線近似で概挿すれば、こんなもんだったかもしれない、という範囲に納まっている。
だから、女性や子供の扱いに怒っているのではない。

不愉快なのは、ひとえに、主人公たちの性格が最悪だからである。
大学関係者や権威ある者に対して、偏見があるとしか思えない切り口の小説群なのである。

主人公は、学歴があまりなく、地方の中学校の先生をしていたり、無職だったりするが、
いずれも、考古学の学問的に素晴らしいと思われる発見や、測定、考察をしている。
彼等は、その結果を、名のある大学や権威ある大学教授のもとに持ち込むが、
教授たちは、いずれも”彼の才能に嫉妬して”、その理論を排除しようとする。
そして主人公たちは、反対意見にあったり、自分が優遇されないと、
相手が自分に嫉妬していると決めつけ、それまで尊敬していた相手を、手のひらを返したように軽蔑する。
自分と異なる意見を持っている研究者を、無意味と馬鹿にし、それを態度に示すから、嫌われるわけだが、
主人公が根拠にしている考え方も、決して確実なものではない。

しかしながら、小説では、いかにも主人公の論理が正しく、
周り中の教授たちが主人公の理論を抹殺したのは、実際に、嫉妬や虚栄心のためであり、
主人公が死亡した後、何年もたって、主人公の論理が正しかったと証明される、という結論に結び付けている。

この小説が出てきた背景や、清張氏の執筆のドライビングフォースは知らないが、
この時代の帝大は、本当にこんなに腐った人間ばかりだったというのだろうか?
それとも、この考古学という分野が、ここまで腐った人間の集団だったというのだろうか?


私はどうしてもそうは思えない。

研究者にとって真実とは、地上の万有引力のようなものだ。
それに逆らってしばし紙飛行機が飛んだとしても、永遠に飛び続けられないことを研究者は知っている。
だから、小説に書かれたような (新しい理論に嫉妬し排除しようとする) 研究者もいなくはないけれど、
そんな人はほんの一部だし、まして、彼らがそろって、大御所になっているなど考えられない。

一方、主人公のような考え方をする研究者も確かにいる。
自分とは別の理論で世に認められている研究者を、学閥のせいだ、付き合いがうまいせいだ、と理由をつけ、
決して認めようとしない研究者が、いなくもないことは、私も知っている。
だが、そのような研究者が唱える新説が正しいことは、非常に少ない。
他人の意見を歪んで解釈する人は、事実や真実も歪んで解釈してしまうことが多いからだ。

ひとまず他人の意見に耳を貸し、解釈し、それを論破、あるいはそれが誤っていることを証明することで、
自分の論理がより強固で、洗練されたものになっていくのだ。
嫉妬から発した言葉だと排除することは、自分の論理のブラッシュアップのチャンスを消すことだ。

だから、「周り中の人が (才能ある人を) 嫉妬して、正しい論理を潰す」という設定は、
事実に即していないように思う。

大学を外から見ている者が、何事かのチャンスに運悪く、ロクでもない権威者にあたって、
それがすべての大学組織とみなして小説を構成してしまったのではないかという気がする。


松本清張氏の理論構築や、探究心は、素晴らしいものだと思う。
彼のバックアップになっている文献の山も、記念館で見てきた。
だから、彼が自分の学歴のなさで排除されたことがあって、
その挙句に劣等感にさいなまれた時期が長く、このような小説を書いていたのだとしたら、
彼の言葉に耳をかさずに排除した、ロクデナシの権威者を私は憎む。

大学組織はそんなところではない、学問の権威とは、そういうものではないのだ。

大学は閉鎖的で、変人の集団で、権威にしがみついているものばかりだと
そんな風に思っている (考えたがってる) 部外者は現代でも数多いようだが......
そんな人こそ、研究機関や大学のドアを叩いてほしいと思うのだ。
真実の前には、学歴など意味がない。
正しい答えを追求するためだけに頭を使うのが忙しい変人たち (結局、変人は変人なんだなw) が、
きっとたくさん見つかると思うのだ。



気になることが一つだけ。

歴史小説がいくつも同録されている。
すぐ上にも書いたが、歴史小説を書く上で、清張氏が実地調査に出かけたり、文献を集めたりしたことは、
記念館でも見たし、あとがきにも書かれていた。
その清張氏が、日本の学問社会は、学歴偏重主義、権威偏重主義だと叫んでいるのだ。

私は嫉妬や僻みの感情や、それを持つ人たちに嫌悪を覚えるから、
普段からそういう態度をとっているし、この小説もこうして 「嫌だなあ」 と思いながら読み進んできたが、
はたして私の認識通り、「嫉妬や僻む方がおかしい」、と言えるような正常な状態 
                  (学歴偏重・権威偏重だという発言を否定できる状態) が、
本当に日本の社会で保たれているのだろうか?

私の周りでは、YESだ。私の組織ではYESだ。正常状態が保たれていると思う。

同期入社の90%が帝大系で、その中で変わり種である私の経歴は目立ちこそすれ、
学歴が異なることでメリットもデメリットもなかった。
  (現在は、海外の大学や大学院を出てきている人が多いので、帝大の割合は下がっている)
学歴偏重を意識したことはない。

   どっかの記事で隣の学科は権威偏重主義だ喚いたことがあるが  (11/16の鍵記事です)
   それだって、実験事実を認めたうえでの解釈が (次のデータが出るまでわからないから)、
   権威者の判断を尊重しておこう、というレベルだ。

だから、わからない。 この場にいる限り、私は学歴・権威偏重主義の真相を知り得ない。。


ちょうど私の綴ってきた記事と裏表になる考え方だと思うが  
「学歴偏重だと僻む方がおかしいよ」 と言いきれない状況が、
まだ、どこかで続いているのではないか? そんな不安を感じる。

我が研究所のような高学歴者の坩堝の中で、
はじめて学歴偏重が崩れるのだとしたら、それはかなり皮肉なことかもしれないが。