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読書録  『シャッター・アイランド』

ハヤカワ・ミステリ文庫 デニス・ルヘイン 『シャッター・アイランド』
飛行機の中で映画を見てから、気になって原作を読了。
 
いや、ホントは読書してる余裕なかったんですけど。
通勤時間を使った一日30分×2回を繰り返し、ようやく読み切りました。
 
   精神を病んだ犯罪者のための病院で女性患者が謎のメッセージを残し、姿を消した。
   鍵がかかった病室からどのようなトリックを使って脱け出したのか?
   そしてその病室には「ローオブフォー」(4の法則)なる暗号がのこされていた。
   連邦保安官テディは病院に赴くがある事に気をとられ、捜査ミスをおかす。
   妻を殺した男がここに収容されていたのだ。
   ボストン沖の孤島に建つ病院で惨劇が始まる。挑発的仕掛けのサスペンス。
                             (amazon 「BOOK」データベースより)
 
映画にひきつづき、このあらすじも信じちゃいけません。
できれば予備知識なく読んでください。頭がめちゃくちゃ鈍っている時なら、楽しめるかもしれません。
ここからはネタばれオンパレードです。 
これから映画を観ようと思う方、および、オチを知ってる話を楽しめない方は読まないでくださいね。
 


 
まあ、映画の感想がいまひとつだったにもかかわらず、なんで小説を読みたかったかと言うと
シンプルで、謎なんて何にもないようなありふれた話を、あえてミステリーと呼んでいるからには、
原作の段階には、“謎” とみなせるものがあったのではないか、 と思ったからです。
映画に出来なくて小説に出来ること。
               そう、叙述トリックです。
 
  叙述トリックとは・・・・・・・・・・
   ミステリ小説で読者のミスリードを誘う手法。
   登場人物の性別や国籍、事件の起きている時間や場所などを意図的に伏せ、
   先入観などで誤解させることで、疑似どんでん返しを作るテクニック。
   「私」 「ぼく」 「オレ」 など、一人称の言葉の多い日本語ならではのトリックも多いが、
   告白者の性別の分かりにくい英語だと、アレンジが広がる。
   我孫子、折原、綾辻など、いわゆる新本格の作家が得意とし、
   貫井に至ってはそれしかないのか、と、、、、以下省略。 (←文責 ゼブラ)
 
人の入れ替わりや、一人二役、あるいは読者に気付かれない主人公のすり替えは、
小説ならば容易ですが、映画では不可能、あるいはめちゃくちゃ怪しい映像になってしまいます。
シャッター島に捜査に来た保安官のエドワード・ダニエルズ(テディ)と、
彼の妻を殺し、シャッター島で留置 (&治療) されているアンドルー・レディスが
同一人物なのは確かなのですが、

① テディ及び政府に真相を暴かれないために、彼に投薬して狂人に陥れたのか、
② テディ自体が、レディスの狂気の作りだした想像上の人物なのか、
 
その二つを行ったり来たりさせるのがこの小説の狙いなら、姿の見えない叙述トリックがベストです。
また、映画だって極端に偏った見方をすれば、②が真相であるように結んでいたラストを
実は①ではないのか、と推測させる根拠もなくはないのです。
 
だってむちゃくちゃだとは思いませんか?
精神の異常をきたした奥さんが、3人の子供たちを殺し、
その奥さんを殺害したあとに、彼女の狂気のきっかけが自分が仕舞い忘れた薬を飲んだためと知り、
その自責の念と悲しみで自らが狂ってしまう。
そんなレディスが、シャッター島に閉じ込められるほど重罪&凶暴なのでしょうか?

また、精神異常者に対する治療が、禁固⇒薬物治療⇒手術、と変わりつつある時代だったとしても、
テディ一人のために複数の医師を含むエキストラ66人と、島一つ、
自然現象である嵐まで待って、彼を正気に戻そうとするでしょうか? 
その結果が、時代の治療法を左右するとでも言えるのでしょうか?
そもそも、狂気のシナリオにつきあうことによって、正気に戻るという治療法があったのでしょうか?
 
そこまでの無理やり加減を通そうとするよりは、
政府の陰謀でロボトミー手術などでパーフェクトな兵士を作る研究をしてたのを、
ある上院議員に依頼された保安官が、暴きに来る、と考えたほうが、まだ無難であるように思えるのです。
 
                  が、
 
原作は、結局、その無理やり加減を通し、叙述トリックも何もなく (小説ならではのミスリードがありましたが)、
しかも宣伝文句で謎解きとされていた
「入院患者が鍵がかかった病室から抜けだしたトリック」 は、
みんなで口裏を合わせていただけでそんなトリックはない、
すべてテディの狂気の見せる夢だったんですよ~、的なオチになってしまっています。
 
    こ、この怒りをどこにぶつければいいんだっ!



 
さて...... ここからは映画の感想とも小説の感想とも、区別しにくいのですが、
結論すると、これは原作より映画の方がはるかに出来が良かった、と、言わざるを得ません。
島の情景や、おどろおどろしさも良かったし、重苦しい雰囲気は映像の方がピタリと来ます。
また、映画のラストシーンの素晴らしさは
               (もしかすると原作も映画と同じオチになってたのかもしれませんが)、
翻訳された文章ではうまく読み切れませんでした。
 
(以下、保安官テディでも、妻殺しのレディスでも、どっちの名で書いても、説明が分かりにくくなるので、
 役者であるデカプリオの名を使って書きます)
 
最後の朝、院長とシーハン医師は、
デカプリオが、自分が妻殺しのレディスであることを思い出し、正気に戻っていたなら、
それは投薬や問診治療効果の証明だから、脳手術をしないでおこう、というジャッジをしようとします。
彼ら医師たちにとって、記憶を消してしまう脳手術は最後の手段で、
そんな非人間的なことは、できればやりたくないからです。
 
その朝、デカプリオは、正気に戻り、自分がレディスであることを思い出していました。
ですが、正気の上で、あえて保安官のテディを演じ、脳手術を受けることを選びます。
 
   それまでの映画全体で、デカプリオは何度となく自殺願望があるように見受けられるのですが、
   彼が正気に戻ることは、子供が妻に殺されたこと、自分が妻を殺したことを思い出すことです。
   デカプリオはそれだけは嫌なのです。
   だから、ラストシーンで彼は、外科手術により、妻を殺した自分の罪悪感と苦しさを消すことを選び、
   すなわち、テディを消すついでに、レディス本来の記憶をも殺すことを選ぶのです。
   それは多分、テディになることを禁じられた彼の、最後の逃げ場だったのではないかと思います。
   
このラストシーン、映画に付け加えられた解釈なのか、原作からそうなのか分かりませんが、
原作が同じ最終シーンだったと仮定して、原作の冒頭のシーハン医師の回顧録を見ると、
シーハン医師もまた、デカプリオが正気に戻っていながらテディを演じていた、とわかった上で、
あえて記憶を奪う外科手術をしてやったのではないかと思うのです。
それは、「テディ」 が信用していた相棒チャック (シーハン医師がテディの狂気につきあって演じていた)の
テディに対する同情なような気もして、
あまりにも辛い現実から逃げだすためのデカプリオの狂気を、
シーハン医師が認め、見逃してやった優しさともとれます。
ストーリーは無理やり加減が目立ちましたが、このラストの情景だけは、とても切なかったと思います。
 
なお、このラストシーンがなければ、
この映画は 『エンゼル・ハート』 や 『マウス・オブ・マッドネス』 の、2番3番煎じにすぎません。
密室トリックや暗号解読もどきのミステリーにせず、
(どうせはじめからバレるなら) 真相を追っているのか、それとも自分が狂っているのか、不安感を前面に出し、
ラストシーンにつなげてくれた方が、ずっと良い映画になったのではないでしょうか?
 
                     ゼブラ @