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読書録 『告白』 & 走れウサギ

双葉文庫 湊かなえ 『告白』 夕べ、京都のバスルームで読了 (で、読書録は  で書いてます)
映画やらなんやらあるが、ひとまずwikiを引用。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%8A%E7%99%BD_(%E6%B9%8A%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%88
 
まず、ノンストップで読めたし、社会的話題提供の意味も充分に感じられたし、面白い小説だったと思う。
その上で、自らの立場とこれまでの読書傾向から感想を書かせてもらうと……
 
   ところどころに入る、主人公の教育論や各種事件への感想を、辟易しながら読んだ。 
 
意見が合わないわけではないのだが、小説の冒頭部分にこれを書き連ねることに意味はあるのか?
(一部布石もあったが) こういうことが言いたいための小説か? みたいな警戒感があったのだ。

それら主張がどれだけポピュラーなのかは知らないが、
子供のゆがみと教師の歪み、マスコミの取り上げ方の偏り方と悪影響は、雑誌等で論じられていることで
ネットに蔓延する学校論・教育論ともども、頻繁に目にするものばかりだ。
はっきり言って、古い。 古すぎるし、ありきたりすぎる。
この本に対して、「自分の言いたいことをはっきり文章にしてくれていたからうれしかった」、
「最初からひきこまれた」 というレビューもあったが、私には冒頭部分はダルいばかりだった。
 
告白調ではありながら、やがて話が動き出し、
それぞれに気の毒な子供たちや、教師たちが出てくるのだが、その中の誰にも同調できない。
娘を生徒に殺された主人公の怒りは、親としてよくわかるし、復讐部分は痛快なところもないわけではない。
ただ、森口のあまりの底意地の悪さと、私は神だとばかりの断罪口調に、同情心が失せていった。
 
   #目には目を、というのは仕返し容認のようにとられるが、
   #目を潰されたからと言って、相手の命をとってはいけないのだ、という意味も含む。
   #森口は明らかにやり過ぎである。
   #過剰な復讐劇の小説がないではないが、それには復讐の説得力が必要だと思う。
   #森口に同調しきれなかったので、最終的な爽快感は味わえなかった。
              
一方、渡辺修哉が同級生たちをバカにし、全く違う感性、判断基準でその中にいるしかなかったことには、
同情するし、彼にシンクロしてしまいそうな場面もあった。 
母親に会うためにひたすら問題を起こそう、という愚かさがひょい、っと出てきて、
子供だからって、これはありなのか?、と突っ込みを入れたくなった部分もあったが。
 
下村親子は、あくまでおろかな二人として描かれていて、彼らが一番一般的でありながら、一番不幸だ。
また、それを緩和するためか、最終的に森口の娘を殺した殺人者を、“殺意を持った” 直樹にしているが、
ここは過失のままでもよかったんじゃないかな~ と、ちょいと思った。
そういうわけで、愚かで醜悪で断罪するのはかまわないが、子供達には同情する余地もあったように思う。
 
その一方で、生徒たちからも、森口からも嫌われる新任教師、寺田良輝の醜悪さは強烈である。
実際にこういう教師がどんなに多く、どんなに生徒たちが苦労したかは、
アラフォー世代の方たちなら、経験があるのではないだろうか?
 
  かつてヒットした武田鉄也扮する中学教師になり変わったような妄想を抱き、
  生徒の悩みをドラマにあてはめて過剰反応し、自分に酔った教師がどのくらいいたろうか?
  熱血教師ごっこをする教師に、救われた子がいただろうか? 何人かはいたのかな?
         ドラマネタで取り上げられたことのない私のタイプは、被害しか被らなかったよ 
 
  最近、教育本が増えたり、キャリアパスの違う教師が自伝を書いたりすることで、
  再びそれらに心酔する教師が出てきているようだ。
  身近に、「いったい、どうしちゃったんだこの人は??」、と思うような学校教師もいる。
  心酔するのはいい、“助けを求める迷える生徒役” を目の前の生徒に押し付けず、
  自分をヒーロー視せず、脚本を作らず、ちゃんと判断してから、行動してほしいものだと思う。
  「君の環境ならグレ立っていい、グレるはずだ」、「苛められたら登校拒否にならなきゃ変だ」、
  「先生を頼ってきて欲しい」、「先生に泣きつかなきゃおかしい」、「なによりも心が通いあわなきゃ変なんだ」、 
  「競争はいつになってもできるから、今は先生と話して」、「受験より大事なことがある」
  いずれも生徒の求めとズレていたら、単なる妄言なのに、教師は自分の演じたいものを押し付ける。
  マニュアル通りの教育はないと言いながら、
  マニュアルから外れたもっとマイナーな一例を、新たなマニュアルにしたがっているように思えてならない。
 
     正道より例外の方が、はるかに多様で扱いにくいことを一言で説明していたのは
     トーマス・マンの 『トニオ・クレーゲル』 だったか。

  怪獣と戦っているウルトラマンに踏みつぶされた家に、おばあちゃんがいたかもしれない、
  高速道路や国会議事堂が壊されれば、直すのには国の借金が増えるか、税金が上がるんだよ。
  現実はドラマとは違うんだよ? わかってほしいなあ。
  学校問題だって1時間ごとには解決しないし、書物をマニュアルにしたくても、
  カリスマ教師の一生は2-3時間の読書で知りきれるわけがないんだよ。
  わかってるっていうのなら、わかっているとこちらに伝わるような行動をして欲しいなあ、と常々思っている。
 
   #私は自分の経験のせいで、教師という職業に不信感を持っている。
   #現在、娘の担任教師などを見て、そういう人ばかりでないということもわかりつつあるが、
   #その人数比率は知る由もない。
   #悪貨が良貨を駆逐しやすいのが、学校社会だと思っている。
 
 
閑話休題。 本来、復讐劇には愛憎が必要だと思う。
なのに、この小説では、取り扱っているのが親子なのにもかかわらず、
社会やマスコミ、夫婦、学校の問題点と、人間の愚かさや執着心しか伝わって来なかった。
やりきれないというよりは、不愉快な読後感も手伝って、
なんだかんだとネガティブな考えがエンハンスされる小説だった。
 
 
                       
 
走れ、ウサギ (ここからは読書録ではありません)
 
これは小説だから、こんなことを考えても仕方ないことなのだろうが、
中学生の親だったり、仮にも学生を教えることがあるので、つい、考えてしまう。
身近にこの小説の様な生徒たちがうろついていたら、私は助けてやることはできないだろう、と。 
北原美月や下村直樹を理解し、助けてやれるとはとても思えない。
 
ただ、渡辺修哉のような生徒が、道を外さないきっかけなら、知っているような気がした。
 
簡単に何でもこなすことができる、他人が自分と同じように出来ないことが、不思議である、
そんな風に思って孤独を感じたり、周りを馬鹿ばかりだと感じたことがある人は、
実はそう少なくもないのではないだろうか?
日本は能力別編成をしないからクラスの数だけトップがいて、しかもトップが動かないこともままあるだろう。
トップの彼を、上のランクのクラスにに移動させれば、彼は孤独も感じなくなるかもしれないし、
自分より優れたものに出会って謙虚さも失わないで済むかもしれないのだが、日本ではそれをしない。 
別ランクに進めないまま、プライドで凝り固まってしまって、ろくな結果にならない例を見てきた。
 
どんなに登っても登っても、世界一までたどり着くのは時間がかかるだろう。
頭脳で世界一になったからと言って、答えのわかっていない謎はたくさんある。 
それを片っ端から解いていかなければ、自分に酔ったり、気がすんだりすることはないはずなのだ。
とはいっても、中学生にいきなり世界一だの宇宙の真理だの言っても、ピンと来るはずがない。

さて。。。。進学一本やりだった私の高校に、何を間違ったか、文武両道の陸上選手がやってきた。
陸上部に入ったところで、うちの学校に彼女に匹敵するような選手はいない。 
かといって、競い合わなければ、タイムも出ない。
そこで陸上部の顧問は、トラックを何周もする彼女に、1周ずつ伴走者をつけ、その伴走者を何度も交替させた。
ラビットという奴である。 ペースメーカーであり、競い合わせるための走者であり、
自分のタイムより、選手のタイムを伸ばすことをミッションとしたサポーターである。
 
新幹線開発は、技術よりも何よりも、「東京大阪間を3時間で結ぶ」 という
具体的な目標値が成功のカギだったという話を聞いたことがある。
何を目標にするか、その目標は十分遠くて達成できたら素晴らしくて、
でも、不可能と感じてあきらめさせることはない、ちょうど良い距離感が必要なのだ。
 
学ぶ原動力こそ他にもあったが、私の兎は人間ではなく自然科学だった。
SF小説の科学考証を追いかけていくと、いつも、
   「ここからは、あなたたち(人類)はまだ知らない世界です」、と、行き止まりがあった。
理化学事典を読んで、科学雑誌を読んで、でも、行き止まりの先を掘り進むのは、すごく大変そうだった。
                                                    そして・・・・・・今に至る。
 
心を鍛えるには、謙虚さが必要だと思う。タイミングも必要だと思う。
子供たちは、成績が良いと簡単に慢心し、つい、謙虚さを失いがちになる。 
心を鍛えるタイミングが来るまで、謙虚さを失わずに、上を見ていられるように、
良いラビットを与えることが、指導者の役目なのではないだろうか?  と、思う。
 
                     話がずいぶんずれたな